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記事: テオティトラン・デル・バジェ織物小史 I 大地より織られるもの

テオティトラン・デル・バジェ織物小史 I 大地より織られるもの

テオティトラン・デル・バジェ織物小史 I 大地より織られるもの


1|神々の谷と織物の村(紀元前~15世紀)

オアハカ市中心部から東へ車で 40 分、シエラ・マドレ山脈のふところ標高 1,700 m の渓谷に広がる小さな村テオティトラン・デル・バジェ。その名は「神々が家を築いた谷」を意味し、15世紀半ばにサポテコ族によって建設された最初の村の一つである。農耕を行うサポテカ族にとって、この谷はとうもろこしと聖なる水が宿る聖域だった。乾いた山肌を切り開いた畑と、石畳の細い路地が迷路のように続く。家々の中庭では、鮮血のようなコチニール液が煮える大鍋、藍の発酵槽から立ちのぼる甘い匂い、コンコン…とウールを織る杵のリズム――村で聞こえる生活音の 7 割が織物に関係するとも言われる。まさしく織物の村だ。

メキシコの織物の歴史は、少なくとも紀元前1400年頃まで遡る。メキシコ全域で布作りが行われ、乾燥地ではリュウゼツランやヤシ、湿潤地では綿花が用いられた。

テオティトラン・デル・バジェを含む地域で、かつて栄えたサポテカ文明では、織物は重要な工芸品だった。織物は山の向こう、メキシコ中央高原のアステカ帝国へ貢納されていた。装飾はミトラの石組みを抽象化したグレカ(幾何学)やサポテカ・ダイアモンド。これは後にテオティトラン・デル・バジェの名産品であるタペテ(ラグ)の象徴的な模様となるが、当時は神殿壁面の紋様を転写した“護符”の役割が強かったと解釈されている。またこれらのパターンは単なる装飾でなく、暦や階級を示す視覚言語でもあった。

当時は上流階級のみが綿花を着用することが許されており、綿布は通貨としても重要な地位を占めていた。後の時代に海を渡り日本にも伝来する赤い染料のコチニールもこの時代から使われ、その特徴的な深紅は権威と豊穣の象徴とされた。


この時代の織機としては、腰機(こしばた)と呼ばれるシンプルな織り道具が用いられていた。その名の通り、自分の腰で引っ張って織るこの手織り機は現在でも一部の地域で使われている。サポテカの女性たちは、このシンプルな織り道具で綿やイシュトレ(アガベの繊維)の布を織り、家族と神前にささげる衣装を仕立ててきた。万年筆ほどの木製シャトルを往復させながら糸を締めるリズムは、まるで心拍のように一定で、永遠に続くと思われた牧歌的な暮らしそのものだったろう。一人の女性が地面と一体化するように布を織り上げる姿は、農耕儀礼と重なり 大地を紡ぐ 行為そのものだった。各文明には織物の守護神が存在し、サポテカの女性は死後も自作の布とともに埋葬されたという。

 

2|征服と技術革命(16~18世紀)

1521 年にアステカ帝国が陥落すると、スペインは野蛮とされた先住衣装を禁じ、布の生産体系を塗り替える。わずか 14 年後の 1535 年にはこのテオティトラン・デル・バジェがあるオアハカにもその波が押し寄せる。宣教師や入植者は布に課される税を効率よく取り立てるため、ウール、そして木製の足踏み織機(telar de pedal) を導入した。


バックストラップが「自転車」ならペダル織機は「大型ツーリングバイク」。出力がまるで違う。ペダル職機は横幅 1m 超のウール生地を一気に織れるうえ、男性の脚力が生産性を押し上げた。結果、家族工房の分業体制が生まれる。女性は紡績と染色、男性は織りと販売、子どもはペダルの補助――という今日もテオティトラン・デル・バジェの家々で見られる仕事の風景だ。

こうして、ウールで、ラグのような大きな織物が効率的に作られるようになった。

当初、原料のウールは輸入されていたが、1530年代後半までにはスペイン人によってメキシコに羊が持ち込まれた。こうして1580年までには、メキシコはウールの織物の新大陸で最大の生産地となり、現在のオアハカ、トラスカラ、プエブラに生産が集中した。当初はスペイン人の織り手が生産を行っていたが、より安価な労働力である先住民織り手に取って代わられた。スペイン人は先住民を雇い、タラベラ(工房)を設立した。テオティトラン・デル・バジェで作られたウールの織物はフィリピン航路やペルーへも輸出された。

 

またメキシコ原産のコチニール染料はヨーロッパに輸出されたが、その原料である生きている虫は政府によって厳格に管理され輸出は禁止されていた。コチニールは赤い金と呼ばれるほど高価であり、その資金によってオアハカに今も残る壮麗な教会が建設された。

現在も作られるレボソ(ショール)もこの時代に生まれた。レボソは、スペインの征服以前のママトゥル、スペインの民族衣装であるフラメンコドレスの一種マンティージャ、オリエンタル地域のレパセホから影響を受けている。

こうして “神々の谷” では、サポテカの伝統とスペインの技術が交差するハイブリッドな織物文化が育まれた。

 

3|メキシコ建国とゴールドラッシュ―観光ブーム前夜(19~20世紀初頭)


1821 年、独立革命の混乱のなかでメキシコ合衆国が誕生。政府は銀山とともに織物を外貨獲得の柱に据え、オアハカ産ウールは北部国境を越えてカリフォルニアへ流れ始める。

同時期、蒸気機関の導入でメキシコの繊維業は西欧に匹敵する生産力を獲得する。とはいえ国内税の高さから工場は分散し、ラ・ラグーナのような綿産地を除けば、大量生産と家族工房が併存する独自のエコシステムが続いた。

ポルフィリオ・ディアス時代(1880年代〜1910年)に権力が強化されると、外資導入が可能となった。19世紀末までには、繊維生産・流通は国内最大の製造業となり、主にフランス系移民が支配した。

そうした中、隣国のアメリカでは西部のカリフォルニア州のアメリカン川沿いで大工のジェームズ・マーシャルが砂金を発見する。世に言うゴールドラッシュの始まりである。その影響は凄まじく、サンフランシスコは1846年に人口200人ほどの小さな開拓地だったものが、1852年には約36,000人の新興都市に成長した。


オアハカの商人はこの潮流をいち早く察知し、グレカ柄ラグを荷馬車に積んでアリゾナ・ニューメキシコを縦断。村のラグがサンタフェの交易所で「モダン・インディアンアート」と紹介され、高値で取引されるようになる。


ただし、この時期までは天然染料が主流で、生産数も限定的。谷間の村にマス・ツーリズムが押し寄せるのは、次世代――ハイウェイと化学染料が交差する 20 世紀半ばを待たねばならなかった。

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テオティトラン・デル・バジェ織物小史 II 氾濫する色

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4|狂乱の化学染料時代(1950〜1970 年代) 第二次大戦後、国土の被害もなく戦勝国となったアメリカは空前の好景気に突入する。メキシコを縦断するパンアメリカン・ハイウェイが完成すると、人も文化も貨物も一気に動き出した。フォルクスワーゲンのタイプⅡに乗った米国の若者──ビートニク、ヒッピー、サーファーたち──は、ティファナからメキシコ国道190号線を南下し、オアハカの谷間に“理想郷”を見つ...

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